湯上がりに色づく乳房、マニキュアの塗れる指。そこまで極めた「アート」
テーブルに無造作に置かれた手や指、そして乳房・・・・・・正直、これを目にしてギョッとしない人はいないはずだ。表現は穏当ではないが、まるで今しがた切り落としてきたかのようなリアルさ、圧倒的な存在感。だが驚嘆は、中村さんの話を聞くにつれ、やがて感動に変わっていく。
“出世作”は、人工乳房「ビビファイ」。シリコーンゴムでできたそれは、たとえば横になった時の違和感のないたわみ具合までを計算し尽くしている。うっすらと透き通って見える血管、ホクロや微妙なシミまで、見事に再現。これなら特別な下着を着ける必要もないし、専用の粘着剤を使えば入浴などもオーケーだ。
「日本では少なくとも年間1万人の女性が乳がんで乳房を失っています。そのつらさ悲しみたるや、特に我々男性からすれば、想像を絶するものがある。『もう女ではなくなってしまった』などと思い詰めて、うつ病になる人も少なくないと聞きます。口幅ったいのですが、そんな女性たちがウチの製品で、生きる希望を見いだしてくれたら。そう思って、つくり続けているのですよ」
その願いが数多くの女性たちの胸に届いているのは、「誰よりも子どもたちが大喜びしてくれました」「鏡に映った自分を見て、生き返ったんだと実感しました」といった、お礼の言葉をつづった分厚い手紙の束が証明している。
むろん、リアルさを実現するのは並大抵のことではない。造型も着色も、すべて手作業。オーダーメードの場合、受注から完成までざっと2、3カ月はかかる。高い技能と努力、感性も根気も必要だ。加えて、たゆまぬ技術革新。
「ビビファイは、湯上がりにほんのり赤みを帯びます。お湯でほてっているのに、一方の乳房だけ真っ白じゃいけないと研究しました」
こうして蓄積、進化させた技術をもとに、人工乳房開発から3年後の94年、その名も「メディカルアート研究所」(100%子会社)を設立、乳房以外の体のパーツづくりに乗り出した。ここでも、ある女性ユーザーの声を参考に爪を改良、今ではマニキュアもネイルアートも思いどおりである。
「起業するなら故郷で」。そのこだわりに込められた地域への思い、若者への期待
高校を卒業後、京都で義肢装具の修業を積んだ中村さんは、72年、24歳の時に単身渡米。2年後、日本人としては初めての米国准装具士ライセンスを引っ提げて、“凱旋”したふるさと大森町はしかし、人口も激減しさびれた姿をさらしていた。だが、あえてこの地で開業することを決意するのだ。
「周りからは『若造がほらを吹いてる』と思われていたかもしれません。でも、アメリカのメーカーはオレンジ畑の真ん中のようなへんぴな場所にあったりするんですよ。場所じゃない。いいものをつくれば、必ず評価してもらえるはずだと考えました。何よりも、再起不能に見えたこの町を、私が一歩一歩頑張ることで少しでも明るくしたかった」
自宅の納屋を改装して始めた事業は、その技術の確かさもあってしだいに軌道に乗る。地域を明るくするために積極的に地元の若者を雇い入れたことも、吉と出た。
「私が技術を教えるだけでは、伝承の域を出ない。若者が自ら考えることで、新たなものが生まれるのです。アメリカ時代から構想を温めていた人工乳房を始める時も、『明日からやってみようよ』と提案しましてね。手指の時もそんな感じです。『教科書がありません』『じゃあ、自分で考えてみよう』。『どこで習ったら?』『探してごらん』と。任せれば、彼らは苦労しながらも、何かしら必ず結果を出すのです」
ところで、本社社屋は07年に世界遺産に登録された石見銀山の入り口、代官所跡の隣にある。取材に訪れた日も、平日でありながら周辺は多くの観光客でにぎわいを見せていた・・・・・・これ、決して余談ではない。中村さんこそ、遺産への登録に尽力、というより常に運動の先頭を走り続けた人物なのだから。故郷に活気を取り戻したいという、起業と同じ気持ちに突き動かされた挑戦だったことは、言うまでもない。
「ビジネスの前に、人に喜んでもらえる仕事がしたいんですよ」
この言葉が似合う人は、そうはいない。